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三島由紀夫の金閣寺を読んで

きっかけはリスカのチョコレート菓子を先輩がぼくの家に置いていって、次の日の寝起きにそれを食べ、リストカットについて調べて自殺の方法がリスト化された英文のサイトにたどり着き、三島由紀夫がgay poetと紹介されていたのでそうだったのかと思い検索して金閣寺にたどり着き、じゃあ読んでみるかと思って最寄りの図書館に蔵書を確認してすぐ家を出て借りに行ったのだった。


読む前、あらすじとしては坊主が金閣に火をつけたことぐらいしか知らなかった。金閣が好き過ぎて、でもそれを手に入れられないならいっそのこと壊してしまおうとの思いから火を放ったのだろうと思っていた。読んでみるとそんな簡単なことではなかった。



父に金閣がこの世のもので最も美しいと教えられた少年は、心の中で金閣のイメージを膨らませていく。学校では吃りで同級生にバカにされ、ひねくれていく少年に実際に金閣を見る機会がおとずれる。しかしちっとも感動しない。父が死に、寺に預けられてよき友人を得るも、大学進学と同時に悪友を得て彼とは疎遠になり、その悪友とすらも疎遠になり、しまいには和尚をも怒らせてしまい孤独に陥っていく。そして女との行為に至るその始まりの時に脳裏に金閣が現れて彼を不能にしてしまう。そして寺を飛び出し海を見た彼は金閣に火をつける決心をする。多少の躊躇はあったものの綿密な計画通りに火を放ち、自害するつもりが逃げて山にたどり着き、そこで生き延びる決心をするというお話であった。

この小説は1950年7月2日に実際に起きた金閣寺放火事件を題材にしていた。吃りの見習い僧侶が行った犯行で、小説の中でもそうなっていたが、最後に事件の犯人が自殺を試みたが死に切れなかったのに対し、小説では用意した薬品や短剣は谷に捨て生き延びる決心をするというところが違っていた。

主人公は醜形恐怖を抱え、美に対する異様な執着があり、自分は愛される存在にはなりえないという愛着障害も抱えていたように思われた。つまりそれはぼくと同じであり、心の奥には破壊的な行動を起こさせる何かの源泉を抱えており、そういう人は金閣寺を焼くというような他者破壊的行為に出て社会に損失を与えるのではなく、自己破壊的に自殺でもした方がよいと思われた。結局自殺してしまうのであれば金閣を焼かずともよい。ただしそれでは何にもならない。金閣を焼いた上で自殺するから意味があるのだろう。少なくともぼくは人に危害を与えたくはなく、与えるとしたらそれは自分で、しかしそれもしたくはないのである。自分をうまく愛したいのだ。それができないから悶々としてしまうのである。

さて、主人公はやはりと言うべきか親との関係は特殊なものであった。父親が死んでも悲しくもなく涙も出ない。蚊帳の中で母親が他人の男と交わるのを主人公が目撃しても手で自分の子供の目を覆うことぐらいしかしなかった父親である。主人公は母親をひどく醜いものとしてみていたが、うまくやって金閣の住職のあとを継げという希望は、主人公をその気にもさせたが、結局は母親の願いを徹底的に破壊したかったのか、住職お抱えの遊女の写真を新聞に挟むなどの自ら破滅的な行為によってその可能性をことごとく潰してしまう。

これは分からないでもない。母親が言うような生き方をすれば、ひとまずの成功と安泰が訪れるものである。しかしそれを母親が望んでいるというだけで、全く真逆の生き方をしてしまいたくなる。これは自分の境遇を自ら悪化させることで直接的に自分を不幸にしているのだが、実はめぐりめぐって母親の境遇をも悪化させることで、母親を不幸に、つまり母親に復讐をしているのである。

なんと恐ろしく、また無益なことだろうか。こういう人達は幸せの回避行動を取っている。母親が言ったことであろうがなかろうが、例えば金閣の住職になりなさいとか一流企業に入りなさいとか、そういうことはそれが実現すればひとまず安泰ではある。どんなひどい母親でも、子供にこうなってほしいという願いを伝える際、乞食になれとか刑務所に入れとは言わない。にもかかわらず、金閣の住職になりなさいと言われてそれが実現できる可能性をことごとく捨て去り、最後には火まで付けてしまうのだから困ったものである。

親だけでなく同級生からの影響も無視できない。幼少時代から吃りをバカにされ続けた彼は癒えることのない傷を負って生きることを強制させられていた。これもぼくと同じだった。あの同級生がいなければと思う事はよくある。そして良友と悪友の存在の見逃せない。良友はよい。ただし悪友は徹底的に避けなければならない。そしてもっとも避けなければならないのは、人と疎遠になり、孤独でいる時間を長くし、その時間の中で破壊行動への計画を固めていくことである。

まあそんなことを色々と思って、小学校で止まっていた少年時代の記憶をたぐり寄せてまた書き連ねてみたいと思うのであった。すべては幸せを掴む為である。




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