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ぼくとピアノ(大学)

大学はアメリカの大学だった。英語ができるようにならないとまずいと思い最初の頃は日本人を避けていたが、最初の2ヶ月だけ4人部屋でルームメイトが3人とも日本人になってしまい、みんな年上だったので歳が近い1人とは

「英語で話しませんか?」

と言って英語で話していた。入学してキャンパス内のいろいろなところに顔を出すようになると、学内にどんな日本人がいるかだんだん分かってきた。でも話しかけたりはしなかった。とある女の子がいて話しかけられたりしたらやだなーと思っていたのだが、ひょんな事でその子がピアノ科の生徒で演奏家を目指してやっているということを聞いて驚いた。大学は芸術学部もあり、音楽のある分野では全米トップクラスの学部を持つ総合大学だった。

「日本人をみんな避けていたらこういう宝石の原石のような人と知り合うチャンスを失うかもしれない!」

ぼくはそう思ったので日本人に話しかけるようになった。そうしているうちに別の音楽科の人とも知り合い、音楽専用の図書館があるとか、ピアノの練習室があって勝手に使えるとか、ピアノ専攻でなくてもピアノの授業取れるとか、その為には教授のところに行ってオーディション受けないといけないとか、教授にはリストの弟子の弟子の人がいるとか色々な情報が入ってきた。


ぼくはピアノの授業を取るつもりはなかったから暇な時にピアノの練習室に行って弾いたり、寮の1階のホールのピアノを弾いたり、寮の中にもピアノ練習室があったのでそこで友達と弾いたりしていた。ルームメイトが急に日本に帰ることになった時にはショパンからいくつか選んで講堂の中のピアノを弾いて送別会みたいなこともした。別の日に同じところに行って弾きまくっていると、隣の講堂で授業をしていて注意されてしまった。寮にはピアノ科のPh.D.プログラムに在籍しているロシア人がいたので、みかけたらピアノについて色々話したものだった。また仲良くなったアメリカ人が音楽が好きで作曲したりバンドをやっていて、彼と一緒に寮のピアノを弾きあったりもした。

ある日ピアノを弾く知り合いの年配のアメリカ人に老人ホームのようなところに連れて行かれ、そこでショパンを弾いたこともあった。Wonderfulなどと多くの人に言われ、なぜか1人のアメリカ人老女から

「nasty old womanって日本語でなんて言うのかしら?」

と英語で聞かれ、多分「クソババア」なんだろうけどぼくは

「うーんw」

と日本風にうけながしたのだった。

とあるタイ人と友達になり、スズキメソッドでピアノを習ったとかいう話をしていた。ぼくはそれについて何も知らなかった。彼の家に招かれてぼくは幻想即興曲を弾き、その後彼も同じ曲を弾いた。ぼくの方がうまかったと思う。

まだ寒い春先にみんなで一緒に行ったグランドキャニオンのキャンプで、道中宿泊した教会の中でアメリカ人リーダーから

「日本の国歌を弾いて欲しい」

と言われたこともあった。君が代は弾けたのだが、人もたくさんいるし国歌を間違ったらまずいと思って結局幻想即興曲を弾いたのだった。

大学のイベントで各国の生徒が思い思いの出し物をするというものがあり、日本人のグループは合唱を披露することになった。その時に最初に書いたピアノ科の女の子が伴奏をしていた。曲は滝廉太郎の花(春のうら〜らの すみだが~わ♪)だった。

大学でできた彼女からは当時ぼくが愛の夢や革命を弾き、ノーベル医学生理学賞を取ると豪語していたのでなんかすごそうな人がいると思って興味を持ったのがきっかけだったと後で聞いた。この子との思い出の曲はバッハのゴールドバーグバリエーションズのアリアになった。(Bach - Goldberg Variations: Aria, ゴルトベルク変奏曲 アリア)


以上にように大学ではピアノがあればちょっと弾くということをしていただけで新しい曲に挑戦するとかいうことはほとんどなかった。強いて言えばエンターテイナーの楽譜をパラグアイ人の友人から貰い、それを弾けるように練習したことぐらいだった。彼が愛の夢が弾きたいというので楽譜ごと貸した。彼からはおもちゃのようなキーボードを借りていたのだが、お互い返すことなく彼は卒業してパラグアイに帰国してしまった。彼はそれはギフトだと後から言っていたが、ぼくはそのキーボードは日本に帰国する際処分してしまった。

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